はじめに:「生活者として」見ることの意味
「生活者としての外国人」に対する日本語教育というのは、今までの「日本語教育」とは何がどのように違うものなのでしょうか?
このサイトでは、「生活者として」という点が重要なポイントとなっていますが、日本語教育を考えるに当たって、日本語を学ぶ外国人を「生活者」として見るということが、日本語教育の目標やあり方にどのように関わってくるのでしょうか?この講座では、この点について考えながら、日本語教育の将来について、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。
この点について見ていく前に、現時点でのみなさんの考えを聞かせてください。
- 考えてみよう!
「生活者としての外国人」に対する日本語教育はどのようなもので、そうではない日本語教育というのはどのようなものでしょうか?
では、ここで考えた点を踏まえて、生活者としての外国人に対する日本語教育とはどのようなものであるのかについて一緒に見ていきましょう。
「生活者」と「日本語教育」
このセクションでは、文化庁の出している『「生活者としての外国人」に対する日本語教育の標準的なカリキュラム案について』 (以下、「カリキュラム案」と呼びます) * を参考にしながら、「生活者としての外国人」に対する日本語教育とはそもそも何であるかについて、「だれに」「何のために」「何を」教えるものであるのか、という観点から見ていきたいと思います。
*このカリキュラム案は全部で5つ資料から成りますが、これはその1点目になります。5点セットの詳しい内容や活用方法については、別の講座内で取り上げています。
教育の対象 (だれに?)
まずは「だれに」教えるか、教育の対象について考えてみましょう。
「生活者としての外国人」に対する日本語教育なので、教える対象はもちろん「生活者としての外国人」ですよね。でも、なぜ、あえて「生活者としての」という言葉が必要なのでしょうか?これについて少し考えてみましょう。
文化庁によるカリキュラム案の中では、「生活者としての外国人」が何を指すのかが以下のように示されています。
だれもがもっている「生活」という側面に着目して、我が国において日常的な生活を営むすべての外国人を指すものである。
標準的なカリキュラム案について (p.2)
日本に住む外国人の技能実習生や留学生、あるいは小学校に通っている子どもたちは「就労者」や「留学生」、「小学生」ですが、それ以前に、日本に住む「生活者」でもあるので、だれもが「生活者としての外国人」と言えるわけですね。
日本に住む外国人にとって日本語は重要ですが、就労者として、あるいは留学生として、そして、小学生として必要な日本語と、生活者として必要な日本語とは異なるでしょう。このようにして「生活者として」の側面に焦点を当てると、日本語教育のもつ目標や実際の教育内容も、それに合った視点から設定される必要があります。では、次からはこれらについて見てみましょう。
教育の目標
日本語教育の対象を「生活者としての」外国人と考えた場合、教育の目標はどのようものとなるのでしょうか?
この点を考えるに当たって、文化庁の「カリキュラム案」で示されている4つの目標を見てみましょう。このコースの各講座も、常にこの4つの目標を念頭において進められていますので、覚えておいてくださいね。
4つの目標
文化庁の示している4つの目標は以下の通りです。
日本語を使って、健康かつ安全に生活を送ることができるようにすること
日本語を使って、自立した生活を送ることができるようにすること
日本語を使って、相互理解を図り、社会の一員として生活を送ることができるようにすること
日本語を使って、文化的な生活を送ることができるようにすること
標準的なカリキュラム案について (p.2)
下線を引いておいたのでお気づきかと思いますが、全ての目標が日本で「生活を送る」ことができるようにするためのものであることが分かると思います。言い換えると、「どのような生活を送れるようになること」を目標とするかを4つ挙げたものとも言えますね。
では、この目標についてもう少し具体的に考えてみましょう。
具体的な状況を考えてみる
上の4つの目標は、実はオレンジの太字にした部分が違うだけですね。この部分に注目して、もう少し具体的な状況を考えてみましょう。
- 考えてみよう!
次のような「生活」とはどのような生活でしょうか?具体的な状況を考えてみましょう。もしイメージしにくければ、逆に、これらのような生活が送れない状況とはどんな状況かを具体的に考えてみてください。
① 健康かつ安全な生活 ② 自立した生活 ③ 相互理解のもとの社会の一員としての生活 ④ 文化的な生活
どのような状況が思い浮かびましたか?では、ここで見た「目標」や一緒に考えた具体的な状況を踏まえて、次は生活者としての外国人に対する日本語教育の「内容」について見ていきましょう。
教育の内容
学習者が学ぶべき / 教師が教えるべき 内容がどのように設定されるのかを見てみましょう。
上では、文化庁が挙げた目標に該当するような具体的な状況をみなさんと一緒に考えました。しかし、実際に教育をするに当たって、毎回このような状況を挙げていくのは大変なことですよね。そこで、私たちがこのような事例をひとつずつ考えていく必要のないように、文化庁の「カリキュラム案」では、これらの事例が網羅的に列挙され、カテゴリーごとに整理されているんです。
生活上の行為の分類
文化庁による「カリキュラム案」では、生活上の行為が大分類として10 のカテゴリーに分けられています。そして、それぞれの大分類 (Ⅰ〜Ⅹ) はさらに中分類 (01〜22) 、小分類 ((1)〜(47)) と分けられています。*
*分類表の項目はカリキュラム案の1点目の「カリキュラム案について」で提示されたものと3点目の「教材例集」以降のものとで若干異なります。
生活上の行為
下に表示された各項目は大分類で、クリックするとその大分類に属する中分類がタブとして選択できます。タブを選択すると、その中分類に属する各小分類と、その小分類内の生活上の行為の事例が箇条書きで表示されます。*
*カリキュラム案の3点目以降で採用されている版の分類表を使用しています。
「「生活者としての外国人」に対する日本語教育 における日本語能力評価について」 p.22-p.23 参照
とても詳しく細分化され、整理されていることがわかったと思います。ここで挙げられたような「生活上の行為」を行えるようになることで、文化庁の定める4つの目標 (「〜生活を送れるようになる」) が達成できるというわけですね。*
*この分類表は、全項目を網羅的に扱うことを想定したものではありません。必要に応じて、必要な箇所を使用するという使い方が想定されています。
「生活上の行為」と「できなければならないこと」
では、これらの個々の行為を日本語で行えるようになるには、何ができなければならなのでしょうか。
例えば、「Ⅰ 健康・安全に暮らす > 01 健康を保つ > (01) 医療機関で治療を受ける」の最初の項目である「隣人に様態を伝えて助言を求める」ができるには、何を知っていなければ / できなければならないでしょうか?この点についてちょっと考えてみましょう。
- 考えてみよう!
日本語で「隣人に様態を伝えて助言を求める」ために知っていなければならない知識やできなければならない言語行為はどのようなものでしょうか?
いろいろ思いついたかと思いますが、こういったことを考えていくのも大変なことですよね。でも、実は、これら生活上の行為を達成するために「できなければならないこと」についても、全て文化庁の「カリキュラム案」の中で提示されているんです。
能力記述 (Can-do Statements)
文化庁の「カリキュラム案」の中には、上で見た生活上の行為の事例の全てについて、 「できなければならないこと」を列挙したリスト、即ち「能力記述 (Can-do Statements) リスト」を準備してくれているんです。
能力記述リスト (例)
これは能力記述リストの一部で、大分類Ⅰの中分類 01 の小分類 (01) の冒頭の部分です。このように、知っていなければならない単語やできなければならない言語行為について列挙されています。
「「生活者としての外国人」に対する日本語教育 における日本語能力評価について」 p.25
このように、文化庁のカリキュラム案では、生活者としての外国人に対する日本語教育の目標に基づいて、学習者が学ぶべき (教育者が教えるべき) 内容が能力記述リストとして列挙的に示されています。
ここでは、外国人生活者に対する日本語教育の「内容」として、生活者としての外国人への日本語教育を行うに当たって必要な「生活上の行為の事例」の分類表や各行為を行うのに必要な「能力記述」のリストが既にあるということを見てきました。
まとめ
このセクションでは、生活者としての外国人に対する日本語教育とはどのようなものであるのかについて、「誰に (対象)」「何のために (目標)」「何を (内容)」教えるものであるのかという観点から見てきました。
ここでみた、能力記述リストに基づいて日本語教育を行うということについては、これを新鮮に感じる人もいるかもしれません。多くの日本語の教科書では、その日に学ぶ語彙や文型が指定されていることが多いと思いますが、それとは異なるスタイルです。この点については、日本語教育界に発想の転換が求められている点だと思います。次のセクションでは、この点について詳しく見ていきたいと思います。
「日本語教育」の発想の転換
日本語教育界に求められている「発想の転換」について、その精神的な背景 (背後にある理念) や理論的な背景 (背後にある根拠) などを含めて見ていきたいと思います。
「社会的な活動主体」としての学習者
能力記述リストに基づく教育は、どのような見方・考えから来ているものなのでしょうか?
文化庁の「カリキュラム案」における考え方
前のセクションで、日本語教育界に発想の転換が求められていると言いましたが、このような発想の転換については、文化庁のカリキュラム案の「教材例集」に書かれている以下の文章によく表れています。
この教材例集は,日本語の文法や知識に関する学習を中心に据えたものではなく,生活上の行為ができるようになることを目的として作成しています。そのため,「初級,中級,上級」といった日本語のレベルに着目し,文法や日本語の構造に関する知識を積み上げていく形を取っていません。何らかの助けがあれば,日本語を使って生活上の行為は行えるということ,レベルに応じてできる形で生活上の行為ができるようになればよいということを前提としているためです。また,現実的に,日本語が上手になるまでの間も地域で生活をする存在であるという「生活者としての外国人」を考えているためです。
カリキュラム案「教材例集」 (p.2)
「学習者→社会的な活動主体」という発想
上の青い下線部及び緑色の下線部から、この文化庁のカリキュラム案における考え方について、どのようなことが言えるでしょうか?それぞれ、以下のような考えを反映したものだと言えるのではないでしょうか。
- 何を学ぶのか?
- 文法ではなく、生活上の行為を行えるようになること
- どのレベルを期待するのか?
- 文法的に正確にではなく、レベルに応じて、助けを借りれば達成できるレベルで
このような見方は、外国人を日本語学習者として見る以前に、まず第一義的に「社会的な活動主体 (social agent)」として見るという考え方から来るものです。実は、学習者をこのように捉え、言語教育の目標を「能力記述」によって設定するという考え方は欧州評議会の言語政策からの影響によるものです。次からは、この欧州評議会の言語政策について簡単に見てみましょう。
国・言語を超えた共通の枠組み
欧州評議会の言語政策と能力記述リストに基づいた日本語教育とがどう関係あるのかを見ていきますね。
欧州評議会 (Council of Europe) は、1949年に設立されたヨーロッパの統合に取り組む国際機関で、47の国が加盟しています。ここでは、欧州評議会の言語政策と、それに基づいて作られた言語の共通参照枠について見ていきます。
欧州評議会の指針:複言語主義
欧州評議会は、その言語政策において「複言語主義」を非常に重要視しています。以下は欧州評議会が出している、言語に関する5つの指針です。
- 複言語主義 (Plurilingualism) : 誰もが、人生を通じて、複数の言語でコミュニケーションする能力を必要に応じて向上させる権利がある
- 言語の多様性 (Linguistic Diversity) : ヨーロッパは多言語社会であり、それらの言語は全てコミュニケーションの手段として、及び、アイデンティティーの表現として等しい価値をもつ (自分の言語を使用・学習する権利は欧州評議会において守られている)
- 相互理解 (Mutual Understanding) : 他の言語を学ぶ機会は文化間のコミュニケーションと文化間の差異の受け入れのための不可欠な条件である
- 民主主義的市民 (Democratic Citizenship) : 多言語社会における民主的・社会的プロセスへの参加は個人の複言語的な能力によって促進される
- 社会的結束 (Social Cohesion) : 個人の向上、教育、雇用、移動、情報へのアクセス、文化の質の向上のための機会の平等は、一生を通じた言語学習の機会に依存している。
Plurilingual Education in Europe. (Council of Europe, 2006, p.4) より引用
いろいろ書いてありますが、この指針から分かるのは、 欧州評議会が、人々の相互理解や社会参加を促進してヨーロッパ社会が結束していくためには、一人の人が複数の言語を話せるようになること (複言語主義) が重要だと考えているということです。
CEFR と「共通参照レベル」
- ヨーロッパ言語共通参照枠 (CEFR / CEF)
上で見たような理念をヨーロッパ内の各国で実現するためには、どの国でもどの言語でも通用する、言語学習に関する価値観となり得る「ものさし」が必要になります。そして、この「ものさし」となるべく枠組みが、30年以上にわたる調査・研究の結果を踏まえて2001年に発表されました。それが「ヨーロッパ言語共通参照枠」で、頭文字をとって「CEFR」や「CEF」と呼ばれます。
- 共通参照レベル (Common Reference levels)
CEFR / CEF は言語学習のシラバスやカリキュラム作成のガイドライン、試験、教科書等のさまざまな事柄に関する共通の基盤を示したものです。CEFR の中で、ヨーロッパ以外の国・地域でもよく使われているのが、「共通参照レベル」というものです。
レベルは A1〜C2 の6段階に分かれています。各段階のレベルの記述については、以下の参考リンクを参照してください。自己評価表の方では、この6段階のレベルが「理解する・話す・書く」の技能別に、より具体的に記載されていますので、そちらも参照してみてください。
参考リンク
- 能力記述 (Can-do Statements)
上の「共通参照レベル」の全ての項目の説明が「・・・できる。」の形で締められていることに気づきましたか (ちなみに、英語版では、全てが「Can / I can」で始まります) ?自己評価表も同様の記述です。このようにして、「何ができるか」で言語に関する能力を記述したものを「能力記述 (Can-do Statements)」と言います。文化庁のカリキュラム案でも採用されていた「能力記述」という方式は、複言語主義を掲げる欧州評議会によって策定された共通参照枠の中で示された共通参照レベルの能力判定基準になっているものなのです。
行動 (活動) 中心主義の考え方
CEFR の内容は共通参照レベルだけではありません。そこに至るまでの理論的背景が重要でもあります。
上で見た「共通参照レベル」がどのような理論的背景をもつものであるのかを知っておくことも、これをより有効に活用するために重要なことです。ここからはごく簡単にですが、この理論的背景の部分についても見ていきます。
行動中心主義
CEFR のアプローチの基盤にあるのが、「行動中心主義」で、これは以下の文章にもよく現れています。
ここ (訳注:CEFR) で採用されたアプローチは、言語使用者及び学習者をある特定の環境や分野のもとで達成すべき課題 (言語に関する課題とは限らない) をもった「社会的な活動主体 (social agents)」として第一義的に捉えるという点において、一般に言われるところの行動中心的なものである。
Common European Framework of Reference for Languages: Learning, Teaching, Assesment. (Council of Europe, 2001, p.9)
学習者を、まず何よりも第一義的に「社会的な活動主体」と捉えているという点が重要だと思います。この点は、前のセクションで見た文化庁の「生活者としての外国人」という視点とも通じるものです。
言語活動の分析
このように、CEFR では行動中心主義的に言語や言語学習者を捉えるため、共通参照レベルも「言語活動」の分析が根拠になっています。即ち、CEFR の枠組みは言語活動がどのような要素から成るのか (図1) や、どんな領域でなされるのか (図2) 、また、言語活動に必要な能力 (図3) や言語活動内の課題・言語・方略の関係 (図4) などを分析した結果のものとなっています。
Common European Framework of Reference for Languages: Learning, Teaching, Assesment. (Council of Europe, 2001, p.11-p.16)
CEFR の考え方をもとに作成された日本語教育用の枠組みとして、「JF スタンダード」があります。JF スタンダードのガイドブックを読むと、CEFR の理論的背景についてもより理解が進むと思います。*
JF スタンダードの木
JF スタンダードのガイドブックでは、「JF スタンダードの木」によって、グラフィカルに CEFR の理論的背景を含めて Can-do ベースの教育について説明されています。
*JF スタンダードと本講座では、一部の用語の翻訳が異なります。
では、このような分析方法に基づいて、特定の「生活上の行為」を行えるようになるために必要な要素を洗い出してみましょう。
- 考えてみよう!
文化庁のカリキュラム案の分類表の「Ⅳ 目的地に移動する > 07 公共交通機関を利用する」に挙げられる各生活上の行為について、その行為に含まれる ① 言語活動の要素や ② 課題の遂行におけることばと方略の関係、③ 必要な能力等について、上で見た分析に基づいて考えてみてください。
- 行為 (公共交通機関を利用する) の事例
- 発車する時刻や掛かる時間を尋ねる
- 目的地への行き方を尋ねる
- 券売機を利用する
まとめ
ここでは、「できる (can)」に基づいた生活者としての外国人に対する日本語教育のルーツとして、欧州評議会の言語政策の基本理念である「複言語主義」と、それに基づいた国・言語を超えた共通の枠組みである「CEFR」の共通参照レベル、及びその理論的背景について簡単に見てきました。
では、次はこれらを踏まえて生活者としての外国人に対する日本語教育のあり方や課題について一緒に考えてみましょう。
さいごに:生活者に対する日本語教育のあり方について
では、最後に、みなさんと一緒に日本語教育の今後について考えていきたいと思います。
では、ここまで見てきた内容を踏まえ、生活者としての外国人に対する日本語教育のあり方について、一緒に考えてみましょう。
状況に応じた活用
ここまで見た文化庁のカリキュラム案や CEFR 、あるいは JF スタンダードは非常に有用なものだと思います。しかし、これらは絶対的な基準や唯一の見方ではないことを理解しておく必要があります。例えば、CEFR の冒頭では読者の注意を喚起するため、以下のように述べられています。(以下、括弧内は編集者による補足 / 太字・下線部分は原文では大文字による強調)
一点、明確にしておくべきことがあります。私たちは (教育の) 実践者が何をすべきかやどんな方法ですべきかを規定しているのではありません。私たちは疑問を提起しているのであり、答えを出しているのではありません。(参照枠の) 利用者が追及する目標やそのために採用する手段を押しつけるのがこの参照枠の役割ではないのです。
Common European Framework of Reference for Languages: Learning, Teaching, Assesment. (Council of Europe, 2001, NOTES FOR THE USER)
CEFR に盲目的に従わないでください、ということですね。例えば、CEFR の分かりやすい成果物に共通参照レベルがありますが、これをそのまま日本や自分の対象に当てはめてうまく行く保証はありませんし、CEFR の制作者もそのようには意図していないということが分かります。
CEFR や文化庁のカリキュラム案、あるいは JF スタンダードは、そのまま適用することを考えるのではなく、状況に応じて柔軟に活用する必要があると思います。そのためには、制作者の意図や理論的背景等、全体像をしっかり理解しておく必要があるでしょう。
今後の日本語教育について
では、これまでの話や上で見た留意点を踏まえて、生活者としての外国人に対する日本語教育を行う実践者として、「能力記述」に基づいた教育や「複言語主義」などについて感じたことをまとめてみてください。
- 考えてみよう!
今回の講座を通じて、生活者としての外国人の日本語教育のあり方について、どのように考えましたか?実際に自分が実践することをイメージしながら「能力記述」や「複言語主義」などについてのみなさんの意見や疑問などをまとめてみてください。
まとめ
この講座では、「生活者としての外国人」に対する日本語教育とはどのようなものであるのかについてみなさんと見てきました。「生活者として」という点に焦点を当てることで、これまでの日本語教育とのいろいろな違いが見えてきたと思います。そして、そのような見方からの言語教育について参考にできる「ものさし」としての CEFR の共通参照レベルと、その精神的な背景である「複言語主義」や理論的な背景である「行動中心主義」について見てきました。これらの点を踏まえて、これからの講座でより具体的に生活者としての外国人に対する日本語教育について考えていきましょう。

