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福島県の外国人生活者と震災
まずは今回取り上げるケースについて知りましょう。今回のケースは、福島県の外国人生活者とその支援について、東日本大震災の際の状況を取り上げます。
以下では、福島県の (1) 外国人生活者の日本語能力 と (2) 外国人生活者の支援体制 について、諸々のデータなどを交えながら見ていきたいと思います。
では、下のボタンをクリックして、福島県の外国人生活者へのアンケート結果をもとに、外国人生活者の「ことば」の面での現状を見てみましょう。
「話す・聞く」といった会話能力と、「読む・書く」といった読み書きの能力に分けて見ていきましょう。「読む」に関しては、「やさしい日本語」での理解力についても見ていきます。
会話能力
こちらの調査結果を見ると分かるように、「話す・聞く」といった能力は「日常生活に困らない程度に会話できる」レベルであれば、90%近くの人たちが「できる」と答えています。
次に、読み書きに関する能力についても見てみましょう。
読み書きの能力
以下の表を見ると、読み書きに関しては口頭での会話よりは難しいことがわかります。「話す・聞く」に比べ、「読む・書く」は「できない」ことを表す緑色の部分が大きくなっていますね。
ただ、「読む」に関しては、ニュースや新聞が理解できる言語として、一番多いのは日本語です。約75%の人が、日本語でニュースや新聞が理解できると答えています。
最近は外国人のための「やさしい日本語」の普及も進んできています。「やさしい日本語」で「読む」能力についても見てみましょう。
「やさしい日本語」の場合
また、「やさしい日本語」になると、さらに理解しやすくなるようです。やさしい日本語であれば「よく分かる」と答えた人は80%弱もいるんですね。「まあまあ分かる」まで入れると90%を超えています。
このデータからは、福島県内の外国人生活者は「聞く・話す」に関しては、日常生活に困らないレベルの能力をもっている人が非常に多いことが覗えます。また、「読む・書く」はこれらに比べれば落ちるものの、新聞やニュースから情報を得ることのできるレベルの人が多く、「読む」に関しては「やさしい日本語」であれば大半の人が理解できると推測されます。
日本語の日常会話はかなりできるし、「読む」方も、やさしい日本語であればかなりよく理解できるんですね。
次は、支援する側について見てみましょう。ここでは、福島県の国際交流協会の活動の変遷を中心に見ていきます。
まずは、福島県の外国人生活者の数や国籍の変化を表すデータを確認しましょう。
外国人数・国籍
以下の表は1988年と2017年を比較したものですが、福島県における外国人は、絶対数も総人口における割合も大きく上昇しており、外国人生活者の数が大きく増えていると言えるでしょう。。また、国籍別の内訳を見ると、上位3カ国の人々の占める割合が低下し、国籍・地域の数が上昇しています。このことから、一部の国籍の人が多くの割合を占めていた状態から、多様な国籍の人が混在するようになってきていると言えます。
「在住外国人の多様化と地域国際化協会の役割」 (幕田 2019) の表を加工
このように、外国人の数が増えてくるとともに、国籍の面でも多様化が進んできていることがわかります。
では、次に福島県の国際交流協会の取り組みの変遷について見てみましょう。
県の国際交流協会
福島県の国際交流協会は、1988年に設立されました。全国のその他の多くの国際交流協会と同じように、設立当初は「親善」や「友好」といった側面からの活動が中心でした。しかし、だんだん外国人生活者の言語や生活面の支援に関する活動が増え、現在は多文化共生に関する活動が中心となってきています。
以下の表を見ると、左から右に行く (=年を経る) に従って、●の数 (=協会による取り組みの数) が増えて行っているのがわかります。数が増えているだけでなく、上の方の行 (=国際交流関係) の取り組みが多い状態から、真ん中付近の行 (=言語面での支援) と下の方の行 (=生活面での支援) の取り組みが充実した状態に変化していっており、「国際交流」活動から「多文化共生」活動へと重点がシフトしていっているのが分かります。
「在住外国人の多様化と地域国際化協会の役割」 (幕田 2019) の表を加工
このように、外国人生活者数の増加や時代の変遷に合わせて、福島県の国際交流協会の活動も変化・充実していっています。
日本語教室
福島県の国際交流協会では、日本語教室の開設に関するノウハウや情報等の提供、人材育成や団体間のネットワーク構築の支援もしていて、日本語教室の数は1987年に初めの日本語教室が開設されて以降増え続け、協会が開設に関わったものとそうでないもの含めて、2009年には39件に達しました。
蓬莱日本語教室
県の協会は、もともとは「友好・親善」的な意味合いが強かったのが、時代に合わせた活動を増やしていったことが分かります。また、各地に日本語教室が増えて支援体制が広がっていったのがわかりますね。
福島県の外国人生活者の生活支援への取り組みの充実度がわかりました。現場からのニーズを中心に充実していったことがうかがえます。
フミさんと一緒に、みなさん自身の視点でこのセクションを振り返ってみましょう。
生活者のみなさんの日本語能力については、もっと日本語の面で苦労しているかと思ったんですが、以外と日常生活には困らないレベルでの日本語力を身につけているんだなと思いました。
「読む」のは難しいようでしたが、これについても「やさしい日本語」であればそれなりに理解できるということが分かりました。
支援については、県の協会も非常に熱心な取り組みを行っていて、各地域の民間のレベルでも熱心な活動が行われていることがわかりました。
どの程度の支援活動があれば十分なのかは分かりませんが、自治体、民間共にいろいろな取り組みが進んできているのは素晴らしいと感じました。
このセクションで見た福島県の外国人生活者の日本語能力や支援体制に関するデータや事例は非常にポジティブなものでした。
外国人生活者は生活に必要な会話が日本語でできると言うことでした。また、やさしい日本語で書かれた文章はかなりのレベルで理解でき、新聞などからの情報取得もできているようでした。また、県の協会の支援体制は整っていて、各地の日本語教室の活動では熱心な取り組みが行われているようでした。
では、このことから「福島県の外国人生活者の生活について新たに取り組むべき課題がない」と言うことができるでしょうか?ここから先は、平時の際には隠れてしまいがちな潜在的な問題について考えていこうと思います。
上で見たケースを踏まえ、東日本大震災の際に外国人生活者の置かれた状態や支援する側の団体や人々の置かれた状態を見てみたいと思います。
では、震災の際に (A) 外国人生活者、(B) 支援団体 (=県の協会)、(C) 日本語教室の支援者 の3者が置かれた状況をそれぞれ見ていきましょう。
まずは、災害時に外国人生活者がどのような状況に置かれたかを見てみましょう。
外国人生活者が外国人として日本に生活していくにおいて直面する3つの壁 – 言葉の壁・心の壁・制度の壁 – というものがあります。ここでは、これらの「壁」が、東日本大震災の際に、福島県内の外国人生活者に対してどのように立ちはだかったという観点から、震災の際に外国人生活者が置かれた状況を振り返ってみたいと思います。
災害時に、「日本語」という言葉の壁が外国人生活者に対してどのように立ちはだかったか見てみましょう。
では、災害時には外国人生活者と日本人との間にどのような心の壁が生じ得るのかも見てみましょう。
外国人生活者の中には、日常的な日本語の理解には問題ない人も多いですが、震災の際に重要な意味をもっていた「津波」や「放射能」、「原発」などといった日本語は日常生活で使われる日本語とは異なります。
このため、重要な情報を理解できずに困ったり大きな不安を抱えたりする人が多くいました。
そうか…。確かに、日常会話とは全然違う言葉が飛び交うし、当時の状況からして生命や生活の安全に直結することばかりだから、言葉がわからないと、とんでもなく不安になるよね。
では、災害時には外国人生活者と日本人との間にどのような心の壁が生じ得るのかも見てみましょう。
避難の際には、「外国人は避難所に入れない」、「補償が受けられない」といった噂も流れ、不安になった外国人生活者もいました。
また、外国人であることによる差別をされないか、あるいは偏見を受けるのではないか、という心配をする人も少なくなかったようです。
確かに、少数派というだけでも、すごく不安になると思う。避難所みたいにストレスの溜まりやすい場所では、自分や自分の家族が標的にされないか不安でしょうがないと思う。
では、災害時には外国人生活者と日本人との間にどのような心の壁が生じ得るのかも見てみましょう。
外国人にとって、パスポートは自分の身分を証明する非常に重要なものですが、これが津波で流されてしまったために、身分証明ができないという事態も起きました。
また、配偶者資格で滞在している人の中には、震災で配偶者を亡くしたことで、滞在資格を失うということもありました。
なるほど…。こういう非常事態には、震災による身の危険の心配以外にも、制度面での問題で自分の立場に不安を感じることもになっちゃうのか…。
災害時には、外国人の直面する「3つの壁」が平時よりもずっと大きく立ちはだかることになることがわかったと思います。
そして、ここまでの大きな災害の場合、これら3つの壁のような、外国人生活者と日本という社会の間に存在する壁以外にも外国人生活者を悩ませる問題が出てきます。それは、日本以外に「母国」をもっているということによるものです。
外国人生活者には日本以外に母国が存在します。震災の際には、母国に帰るという選択肢について悩んだり、震災に関する母国からの情報と日本で得られる情報との、情報の齟齬によって不安を感じたりする人も多かったです。
そうか。住んでいる日本という国以外に母国が存在することで生じる、いろいろな選択肢や情報のはざまで迷いや不安が生じることもあるのか。
災害は日本人にも外国人にも同様に生活の不安をもたらしますが、外国人であること特有の問題 (3つの「壁」と母国との「はざま」) がさまざまな形で表面化することが分かったと思います。
次に、県の協会がどのような状態であったかを見てみましょう。
ここでは、福島県の国際交流協会が置かれた状況や活動の内容について、震災時に支援活動に当たった職員のマックさんのお話しを聞きながら見ていきます。震災直後の、事務所も使えず情報発信もできない状態からの支援活動を「仮事務所の確保」→「支援体制の整備」→「情報提供の開始」という流れで見ていきましょう。
震災直後は、協会や国際課が入っていた県の建物への立ち入りが制限された状態であり、まず何よりも仮事務所の確保が必要な状態だったということです。
仮事務所の確保は市の国際交流協会などにも打診したのですが、 市の担当部署もそれどころではなく、仮事務所を確保することができませんでしたが、ファックスの送信の協力などを得ることができました。また、1台確保したパソコンでメールの送受信を行いました。
最終的に福島県自治会館1階に4畳半程度のスペース (パーティションで区切っただけのもの) を確保でき、テーブルとイスだけという状況で仮事務所を開設しました。その後、元の事務所から備品を持ち出し、仮事務所の環境を整えていきました。
事務所に入ることもできないという状況では、被災した外国人生活者を支援するどころではありませんね。そんな中で、最低限の活動体制を整えるために奔走していたことが覗えますね。
では、最低限の活動を行う体制が整ったところで、どのような支援活動を、どのように行っていったのでしょうか。設備の整っていない仮事務所での活動ということで、いろいろな不便や制約があったのではないでしょうか。
はい。まず、電話やファックスについては福島県の国際課にはいったものを福島県消費生活センターに転送してもらい、協会のスタッフがそこで対応しました。
ホームページ上で情報発信を行いましたが、これは、スタッフ個人のスマートフォンやパソコンを使って行いました。また、「英語と中国語による地震インフォメーションセンター」を立ち上げましたが、これにも、スタッフ個人の電話を使用しました。
協会の事務所や設備が使えない状態を、個人所有の機器などの使用で補っていた状況だったんですね。事務所外での活動にも制約があったのでしょうか?
はい。交通網の被害やガソリンの補給が困難であるという状況、原発事故の問題で行けない地域があるなど、移動に大きな制約がありました。また、停電によってインターネットや携帯電話の使用に制限がかかるなど、通信面でもままならない状況がありました。このような状況で、各地方と分断された状況にありました。
このため、市内の主な避難所を巡回することにしました。避難所は、「外国人の方はいますか」と言って回ることのしにくい状況で、協会の名前が入った黄色のジャンパーを身につけて外国人生活者からの声かけを待つという方法をとったそうです
なるほど。移動手段や通信にも制約が生じてしまい、各地方の支援まで手が回らないという状況でもあったんですね。
原発での状況などを踏まえると、情報発信が重要な課題だったのではないかと思われます。
そうですね。情報がないことは外国人生活者の不安をかき立てる原因となると考え、情報発信を優先課題として取り組みました。
福島県の災害情報ホームページがあり外国語サイトもあるのですが、更新に手が回らない状況でしたので、協会のホームページがそれを兼ね、放射能関係の情報や物資の支援などに関する情報を英語・中国語に翻訳して発信しました。
各国の大使館が同胞者のために県外への避難用のバスを出していたのですが、どの大使館からも協会には連絡がなく、情報があっても個人レベルでのものであったため、避難用バスの情報発信には踏み切れませんでした。
県のページからの情報発信が不可能であるという状況を受けて協会から発信するなど、臨機応変の対応で情報を発信していたんですね。一方で、各国の避難用バスに関しては、正式な情報が受け取れなかったために、発信するのを止まったということですね。
このようにして震災直後の状況を乗り切りながら、3月30日に20日ぶりの事務所再開へとこぎ着けたということです。
事務所がない、電話が通じない、十分な設備がない、そして、情報がなかったり、あっても確認がままならなかったり…。でも、大変な状況の中、臨機応変に対応されてたんですね。
最後に、地域の日本語教室で活動をしている支援者の方の置かれた状況を見てみましょう。
ここでは、福島県内の日本語教室で外国人生活者の支援をしているチカさんのお話しを聞いてみたいと思います。
では、チカさんから、震災直後のチカさんの状況について話してもらいましょう。チカさんの自宅は福島市内にあり、当日は、日本語教室での活動を終え、地震の発生時には家に帰っていたそうです。
地震が発生したときは、とっさに棚が倒れないようにと考え、棚を押さえ続けていました。しかし、揺れがなかなか収まらず、このまま死ぬのではないかと感じ、外に退避しました。
電気も水も止まってしまったため、一旦避難所に避難しました。ただ、家ではストーブが使用可能で食べ物もあるため、主人と一緒に家に帰りました。
震の直後のチカさんの自宅は、上の写真のようにぐちゃぐちゃだったそうです。
通信状況が復旧し始めてから、外国人生活者からの相談があったそうです。チカさんはどのように対応したのでしょうか?
外国人留学生から、「国へ帰った方がいいのか」との相談などを受けました。
ただ、当時はまだ情報が錯綜している状況で、自信を持ってアドバイスができる状況ではありませんでした。そのため、結局は自分自身の判断で行動するように言うことしかできませんでした。
確かに、当時の状況では、できることは限られていたと思います。逆に、支援者として何かできたこともありましたか?
はい。避難先に関する情報を伝えたり、水などのライフラインに関する情報を伝えることはできました。また、福島県の国際交流協会が発信している情報を伝えたりしました。
例えば、水の確保について相談され、給水塔の情報を伝えることなどができました。
混乱した状況の中、「できなかったこと」や「できたこと」があったようですね。ただ、この震災では原発の問題があり、地震の後にも非常に深刻な状況が続きました。
東日本大震災は地震だけでなく、原子力発電所からの放射能漏れの問題がありました。このため、地震が落ち着いた後にも人々の安心・安全が脅かされた状態が続いていました。そのような状況の中、チカさんも福島市から福島県内の別の地域へ避難したそうです。
原発関係の情報を聞いて、家族と車で避難をすることにしましたが、ガソリンも余裕のない状況で大変でした。
その避難の途中、外国人の方から、福島を出るのを手伝ってほしいと言われましたが、既に福島市を出ており、燃料の問題もあって、何もしてあげられない状況でした。ただ、今でも「何かしてあげられなかったのか」と考えてしまいます。
確かに、このように日本人も外国人も関係になく余裕のない状況では、支援をするのは無理ですね。でも、何か助けてあげたくても何もしてあげられないというのは確かに辛い状況ですね。
地方に避難していたチカさんは、学習を支援していた外国人生活者からの連絡をきっかけに、支援活動に復帰したそうです。
避難生活中も SNS で支援対象者と連絡はしていたのですが、3月の下旬になって、高校に合格した外国人児童の子から「いつから勉強が再開されるか」と問い合わせがありました。これをきっかけに福島市に戻り、日本語支援を再開しました。
災害の発生からまだあまり経っていない時期、チカさん自身も地震や原発事故の精神的なダメージや不安がまだ残っている状況で、日本語支援を開始したんですね。
はい。特に原発や放射能関係のことなどは日本人同士でも意見の食い違いなどで微妙な話題でもあり、心の中の不安をそのまま誰にでも話すことはできませんでした。
ただ、ある親しい外国人生活者の人と、不安や、心の中でのモヤモヤを共有する機会があって、それのおかげでだいぶ心の中がすっきりしました。その人が親しい知り合いだったことに加え、相手が外国人であるという前提で丁寧に話をすることになったのがよかったのだと思います。
支援者と被支援者という立場でではなく、人と人としての関係を気づいてきていたことや、丁寧なコミュニケーションをとっていたことで、支え合える関係になれたようですね。
震災の際には、外国人生活者を支援する側の人も一被災者という立場に置かれてしまい、できるだけのサポートをしてあげたいという思いはあっても、一被災者として、できることは限られてしまうわけですね。
フミさんと一緒に、みなさん自身の視点でこのセクションを振り返ってみましょう。
さっきは、福島における外国人生活者の日本語や支援体制については、あまり問題もなく、新たに取り組む必要のあることはあまりないかなと思いました。
でも、震災の際の状況を見ると、平時とは全く違う状況が見えました。簡単な日本語が分かるだけでは解消できない問題や、普段なら得られる支援が得られない状況が生じると分かりました。
ただ、これが「震災」という特殊な状況だったから問題だっただけで、震災がなければ関係のない問題なのか、それとも、震災が起きなかったとしても解決しないといけない問題なのかはまだ分かりませんね。
このセクションでは、外国人生活者と支援団体、支援者の三者が災害の際にどのような状況に置かれるのかを見てみました。このように見ると、前のセクションで見た「平時」を前提として調査などからは気づかなかった問題が見えてくるのではないでしょうか。
これらの問題は「大災害という例外的な事態だからしかたがない」と言って片づけてしまっていい問題でしょうか?それとも、私たちが取り組むべき課題が存在していることを示唆するものなのでしょうか?
次からは、このように「平時には見えない」問題として潜在的に存在している課題についてもう少し深く考えてみましょう。